2009年 09月 28日
代償と身代わり |
また財布を落としてしまった。
もう見つかったからいいものの、交番で見つかった時には現金だけが抜かれていた。各種の手続きのことかを考えると、たかだか8千円程度は安い代償ではあるけれど、財布が車か何かに轢かれたようにキズだらけになっていたことを考えると、なんとも素直に喜べないものがある。
多分あの時、隣に座っていた少年グループの仕業だろう。
うっかり忘れて行ってしまったくせにエラそうなことは言えないのだが、きっとあいつらがやったに違いないとすでに頭の中で決めつけているのである。どっちが悪い人間なのか良くわからない。交番で面倒な手続きを済ませた後でずっと何ともやりきれない気持ちになっていた。
うっかりしていたが、財布を落とすのもこれで二度目である。我ながらそろそろいい加減にしろよと言う感じである。ここの所、自分の身の回りでいろいろあった所だったので、ずうっと別のことを考えていたのだろう。それどころではないことが多すぎるのである。
財布のことはいいのだけれど、しばらくしてもっとなくしたくないものをなくしてしまったことに気づいた。帽子である。コールマンのボロボロのキャップだ。
財布なんてなくなったって、このキャップがなくなるよりかはマシなのだけれど、それがなくなっていたことに後になって気づいた。なんてことだろう。あっちこっち探しまわったのだが、どこにも見つかりはしなかった。もう手のつけようがないほど落胆して帰途についた。
いったいどこでなくしたんだろう?一日にふたつも物をなくしてしまうだなんて。そういつまでもつぶやいていた。不運よりも自らの注意力の無さにげんなりしてしまう。きっと何処かで見つかるはずと、自分を励ますけれど心の何処かでもう見つからないのをなんとなく予感している。昔からどこに行くにもかぶっていたキャップなので、いつどのぐらいから使い始めていたのかが思い出せないくらいだ。
いくつものひとりぼっちの夜の帰り道を、どれだけ辛くてもあのキャップを深くかぶればなんとなく気分が楽になった。自分のしょぼくれたしかめ面と弱い心を守ってくれていた。布切れを張り合わせただけのかぶり物が、自分に取ってはとても重要だったのである。ぬいぐるみをなくしてしまった子供のような気分だ。
これだけのことなのに本気でこれからの未来が心配になってきた。
仕事を辞めたのだ。勤務は来月の頭まで。そして在籍は来月末までになる。特に次の仕事の当てもない。ふらっと思いつきで辞めるのである。誰になんと言われようともう今の仕事になんの魅力も感じないし、時間の無駄であると痛切に感じていた。だから辞めたのである。
そしてこのブログを始めた頃と似たような状態に戻るのだが、基本的には決定的なものが違っている。すべて自分の力で行っているというところだ。誰にも頼らない。それが「自由」のルール。
自らの失敗に対してその被害を自らが被らなければならない。ここ数年の間、僕は自分だけで生きてゆくすべを学んでいたのだろう。丸一年、完全に一人の状態になったことは恥ずかしながら30近い年まで生きてきて初めてだった。ここまで来るのに、いろんな人たちに出会った。色々と迷惑もかけたし、世話にもなった。月並みだけれど一人で生きてゆくために、人の力が必要だということもきちんと教わったと思う。
その人をいつか愛さなければならないものとして憎め、いつか憎まなければならないものとして愛せ。
そう言ったのはだれだったっけか?
引き出しの奥からあたらしい財布を取り出した。まったく同じ製品。以前にプレゼントしてもらった物なのだが、偶然にもまったく同じものだったのである。今使っているやつの方が使い慣れているからと、予備として取っておいた物だ。こんなところで使うことになるとは思いもよらなかった。新品と、車に轢かれた痕が付き、陵辱されてキズだらけになったそれまでの財布を見比べる。
コイツとも何年一緒にすごしたっけな?
そんなことも今では良く思い出せないのである。勝手に期待されて勝手に落胆されるくらいなら、こっちだって勝手気ままに振る舞うほかない。誰かの恨みや怒りを買って、その身代わりとなるのが彼らなのであれば、僕自身は彼らに哀悼の念を示し、感謝と敬意をもって送り出そうと思う。
それ相応の代償なら、これから先だってずっと払い続けることになるだろうから。象徴的なアイテムがふたつ、世代交代の憂き目にあってしまったことで、かえって今が転換期に来ているのかもしれないなとふと思ったりした。
さよなら。
そしてありがとう。
soundscape
by itr-y
| 2009-09-28 02:14
| 日常