2010年 01月 13日
あなたになら |
「これまで誰にも打ち明けられなかったことをお話しできそうです。どうか私のために大きな心の支えと慰めになってください」
ハッケシャーホーフのすぐ裏手に薄汚い別のホーフがある。
ホーフというのは四方を建物に囲まれたれんが造りのアパートメントそのものを、商業施設としてそのまま改装してあるもののことだ。
ハッケシャーホーフはこぎれいでとてもしゃれた造りだけれど、こっちの建物はバーや小さな映画館、そしてアートギャラリーなどが狭い中にひしめく、汚い建物である。
しかし中に入るとアートショップなんかも入っていて、なかなか面白い。
そんな中にポツンとアンネフランクミュージアムはあった。
はて、彼女はベルリンになにかゆかりがあったっけか、と思いつつ僕はさっき映画館で買ったチケットをポケットに突っ込んで矢印の方向に入って行った。映画の上映時間まではしばらくある。前からちょっと見てみたかったし、ちょっとのぞいてみよう。
アパートメントのワンフロアが、博物館として整備されていた。
ちょうど公民館の一室を改装したような簡単な造りだ。それでもわかりやすくコンパクトにまとまっている。英語の表記がどこでもされているというのは非常に助かる。
入って行くと廊下にたくさんの写真が並べられている。右側がドイツ国内や世界の出来事。そして左側がフランク一家の出来事を中心に編集されている。
当時のドイツの様子というのがその年ごとに写真付きで解説されているので非常に分かりやすい。
第二次世界大戦は日本にとっても避けて通れない話題なので、どうしても自分の国がどうだったかという話になりがちだけど、その時他の国ではどんな状況だったのかというのがわからない。そういうことを教えるのも教育の義務だと思うのだけれど、世界的にもなかなかそこまで教えている国はない。
これは右とか左とかお国の事情ではなくてたぶん授業時間の関係だろう。
その時どこどこではどうだったか!?なんてのを全部の時代でやっているときりがない。しかし、それが同時に扱う文化と時代ごとの関連性がなかなか見いだせないところでもある。
そんな中でも、一番興味を惹かれたのは総統閣下の写真だろう。上段の写真はとても微笑ましい写真だ。小さな男の子が軍服に身を包み笑っている。それをヒトラーが優しい表情で見守っている。
周りの雰囲気も和やかだ。
こういう写真を見ていると、この人も本当はふつうの人だったんだろうなと思ってしまった。実際ふつうだったんだろう。ただやり方が普通じゃなかった。
次の写真はガンオタなら絶対に「ジークジオン!!」と叫んでしまうところだ。大戦後、悪の帝国のイメージはこれで決定づけられてしまったといっても過言ではない。ギレン・ザビに限らず、映画や小説、様々なストーリーの中でナチスは悪のイコンとなった。
彼の写真がカラーで残されていたことを初めて知った。
後ろの金色の鷲の像が印象的だ。まるでそこにいるかのような印象さえ受ける。
そして反対側にはフランク一家、およびユダヤ人達がどうなったかという写真が続く。上の写真は船でベルギーのアントワープ港から輸送されるユダヤ人の写真。こうした印象的なカットを撮る写真家達がいつの時代にもいて、僕らは名前こそ知らずとも彼らのメッセージを受け取ることができる。
アンネが大きくなってゆくとともに、ドイツ国内の情勢はどんどん悪くなってゆく。フランク一家はフランクフルトから亡命し、オランダ、アムステルダムへと住まいを移すことになった。しかし、オランダの情勢もしだいに悪化してゆく。
1940年にはオランダはドイツ軍に占領され、ドイツ軍親衛隊の中将ザルツ・イングヴァルトが国家弁務官として就任し、当初穏健派と見られていたイングヴァルトは少しずつその正体をあらわしてゆく。
ユダヤ人迫害政策が始まり、ほとんどの公共施設への出入りが禁止された。アンネもユダヤ人中学校へ転入せざるを得なくなる。父、オットーフランクはイギリスへの移住申請をしたものの、申請は許可されなかった。
しだいにユダヤ人達は追いつめられ、やがて本格的なユダヤ人狩りが始めると家族は隠れ家での生活を始める。
アンネが日記帳をプレゼントされたのは13歳の誕生日のことだった。
サイン帳としてプレゼントされたものを、彼女は日記として毎日の出来事を綴るようになる。その中には隠れ家での生活の様子が記されていく。
やがて隠れ家での生活にも終わりが来る。1944年の8月4日朝、隠れ家はゲシュタポ(秘密警察)
に踏み込まれ一家は捕らえられる。
フランク一家はポーランドのアウシュビッツ強制収容所に移送されるが、ひと月ほどで姉マルゴーともにドイツのベルゲンべルゼン収容所へと送られる。
翌年、1945年3月31日にアンネは死亡したと言われているが、定かではないらしい。
僕が最初にアンネの日記の話を知ったのは確か、小学校くらいの頃だったろうか。マンガ版アンネの日記というのがあって、それでおおよその話の流れは思い出せた。
マンガ版〜っていうのはなかなか馬鹿にできないのである。
一番有名な写真はアンネが上の方を向いてにっこり笑顔の写真なのだけれど、個人的には一番最初に掲載した写真が一番好きである。
美しくてかわいくて、聡明そうだ。
昔はなんでたくさんのユダヤの人たちが犠牲になったにもかかわらずアンネだけが有名人になったんだろうと思っていたけれど、一家の写真を一通り見るとその理由がなんとなく分かるような気がする。
アンネがずば抜けてかわいいのである。
学校での写真とか、一家そろっての写真とかを見ているとなんでこの両親からこんな美人が生まれるかなっていうくらい奇麗な子なのだ。たぶんクラスメートにいたら簡単にフォーリンラブしてしまいそうだ。
もし僕がどこか強制収容所に送られて死んでしまっても誰もこのブログを出版して世界平和を訴えようとか思わないだろうけれど、父オットーならずともこの子の意志は絶対に無駄にはしないと思うだろう。
そのぐらいかわいい。
「くっそー、かわいいなあ、こんちくしょう」
博物館とか財団の意図とは全然関係ないところで僕は故人を惜しんだ。
それまでこのアンネの話があまり好きではなかったかというと、ひとつにこのアンネフランク財団というのが何となく好きになれない。
僕が最初に入ったのは共産党の地盤の学校で反戦教育とかがうるさかったのだけれど、このアンネフランク財団にも、その性質上どうしても感動の押し売りみたいなところがあって素直に感情移入できないのだ。
はっきり言っていけ好かない。
僕自身はいまだユダヤの方々とは知り合いになったことはないけれど、彼らのやり方に関してはあまりいい話を聞いたことがない。もしも今後ビジネスで交渉することになったらそういう特質を目の当たりにすることもあるのだろうか。
とにもかくにも僕は彼女をネタにして金を稼ぐようなことはして欲しくない。
よくも悪しくも財団と名のつくものはすべからくそういう末路を辿るから。
連行されるひと月前に彼女が記した有名な一節がある。
「自分でも不思議なのは私がいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。だって、どれもあまりに現実離れしすぎていて到底実現しそうもない理想ですから。にもかかわらず私はそれを待ち続けています。なぜなら今でも信じているからです。たとえ嫌なことばかりだとしても人間の本性はやっぱり善なのだと」
アンネ・フランク
彼女の日記を読んでいると、まるで彼女自身と話しているかのような錯覚を憶える。彼女の日記を初めて読んだオットーもそうだったろう。
僕たちは違う国の違う時代に生まれてもなお、彼女と友達になり、そして二人で笑ったり泣いたりすることができるのだ。
そして僕らは人種の枠を越えて、世界をより身近に感じることができる。もしも若い頃の彼が彼女と出会っていたら、歴史は少し変わっていたかもしれない。
いや、もしかすると今僕らがいる世界はその少し変わった世界なのかもしれない。
僕はふと我に返って時計の針を見る。そして狭い階段を小走りに降りて行った。
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by itr-y
| 2010-01-13 04:27
| ベルリン