2010年 03月 11日
Pisces |
新宿という街はそれほど嫌いではないけれど、やはりちょっと疲れた。
昨日おとといと風邪をひいて寝込んでいたのだ。本当にしばらくぶりの風邪だった。ベルリンにいた時も実は風邪をひいていた時があったのだけれど、今回ほどはっきりと寒気がして気分が悪くなったことはなかった。あきらかに体が言うことを利かなくなっていてフラフラしたので丸二日、僕は部屋で横になっていた。そしてなんとか今日、めでたく治ったというわけだ。
しばらくぶりの社会活動だった。
ちょっとした研修と入社の登録など、事務的かつ「社会的快活」さの求められる部屋の中で僕は社会的な快活さをもってハキハキとしゃべる訓練をしていた。もともとそう言う仕事だったのでたいして苦ではなかったけれども、それでもなかなかどうして疲れることが多かった。トレーナーの女性は美人だった。僕はハキハキとしゃべるその女性と目を合わせて話しながらも、その首筋にうっすら残ったキスマークに目がいっていた。
病み上がりでなおかつ5ヶ月近いブランクはでかい。
しかしまあ前の仕事をやっていてよかったなとも思えた。
帰り道、いっぺん食ってみようと思っていた千石ラーメンの店に行って、塩ラーメンを食った。しばらくぶりのラーメンだったような気がする。思えばこっちに来てからラーメンなんてきちんとしたもの食ってなかったなと思い出した。節約していたのだ。今日は病み上がりの体にシリアルだけでよくがんばったと、自分の体へのご褒美とすることにした。
弱った胃に胃薬を流し込んでから食べた豚骨塩味のラーメンは、なかなか泣ける味だった。
いつの頃からか、テストが終わった時とか面接が終わった時とか、がんばった日にはその街の近くのおいしそうなラーメン屋でラーメンを食うことがいつしか習慣になっていた。
自分の中からいつのまにか湯気のように熱意が消えてしまった20代。それをなんとかして少しでも取り戻そうとあがいてきた。それでようやくここまで来た。熾き火のように砂の中でくすぶっていた火にいくつかの火が灯り、僕はすっかり眠りこけていたその火床の近くで、ちいさな赤い火がまた灯り始めているのに気がついた。
ぼんやりとその火を眺めて、何となく物思いにふけってしまっていた。
よくないクセだ。
わかってるんだ。
でもその火はなんだかとても懐かしい明るさのような気がした。
まぶしかった。
翌朝起きると、二日間ほど自分を悩ませていた後頭部の頭痛は去って、僕の頭は多少ふらふらしながらも以前の聡明さを取り戻していた。
こういう時スーツは社会的一個人に戻るには一番手っ取り早い。僕は冷静さと適度な自尊心と尊厳と敬意を持って新宿の街を歩いた。空腹と疲労と軽蔑と敵意をもって歩いていた頃とはずいぶんと違う。自分でなんとかしようという気概があった。
よかった、と思った。
都内の住居は思ったよりも静かだ。街が街だからだろうか。車やバイクは深夜1時を過ぎてもまだ通ってはいるけれど、昼間の喧噪とはそれでもかけ離れている。冷蔵庫の音が急に存在感をまして、キーボードの音が響く。タッチのスピードがそのまま思考のスピード。おまえだって嘘をつくことはできるし、身勝手に振る舞うこともできる。どこに行ったってお前はお前で自分を偽る必要なんかない。そしてどこまでも自由でいられるんだ。現に君は証明したじゃないか。オレはここにいるのだと。声をあげて叫んだじゃないか。
そして僕はパックのジュースを飲む。ストローから口を話した瞬間、息を我慢していた紙パックが「ぶはっ」と音を立てる。背もたれに仰向けになり、天井を見上げ頭の後ろで手を組む。
「なんかバラまきたいな」
そうさ、今日は僕が生まれ変わる日。
「ピスケスがなぜ二匹の魚なのか」と君が尋ねたのを僕は今でもときどき思い出す。僕がいくら物知りだからって、そうなんでも知ってるわけじゃない。ときどき口を尖らせながら僕の変人っぷりに呆れながらも、おどけて笑う君の笑顔を今でもはっきりと憶えてる。「星座のことって疎いんだ」星を見るのが好きだなんて言ってたくせに僕は平気でそんなことを言った。流星群でも来ない限り星なんて眺めやしない。コンクリートの土手の上は冷たくて、春はまだまだ遠いのだと感じた。「春が残酷なのはいつが春なのかわからないからだよねぇ」なんて、また脈絡のない方向に話しを持ってゆく。
なぜだろう。
もっと話したいな、と思っていた。
ふだんの僕ならあり得ない。いつの間にか天球はぐるりとまわり、夜も更けていった。工業団地へと続く道はこの時間でも時折トレーラーがごうと音を立てて走り抜けてゆく。その音を僕は隠れ蓑に、いくつかの聴こえない呪文を唱えた。ほら、犬しか聴こえない周波数とか、そういうやつだ。そしていくつかのタネが何年も後に開花するようにまじないをかける。星座の話なんかするからだ。僕は魔法使いでもなんでもないのに。
ここまで思い出してしまって僕はあの時撒いたタネのことを考えた。彼らは今でも冷たい土の中で花開く日を待っているんだろうか。そしてその小さな体に一身に明るい光を浴びて咲き、そして散ってゆく自らの姿に恍惚とした夢を見ているのだろうか。「まるでそりゃセミみたいだね」誰かまたひとり部屋のなかで呟く。
「あの子らはいつか地上に出ることを待ちわびているけれど、実はそうやって地上に出た自分のことを夢見ている時間を長く設定したのは、神様からの一番の贈り物だったかもしれないね」
ガラスのふちによりかかるヒヤシンスだった。彼女は先週からこの部屋にいるのだ。彼女はしなだれた乳房と張りのなくなった太ももを紫色のシュミーズの裾からだらしなく突き出して、テレビを見ながら言った。テレビを見ていたんじゃなかったのか。僕は聴こえなかった振りをしてまたキーボードを叩く。その通りだと思った。彼女の言うことはいちいちもっともなのだ。しかし世界ではもっともなことを言う人間は嫌われる。彼女もそうして太ももの張りをなくしてきたのだ。
僕は何を無くしてきたろう。
ピスケスは一対の魚だ。
確かへその緒みたいなのでつながっていたはずだ。
それはたぶんふつう切れることはないんだろうな。僕はまだそんなことを考えて火の床の側でぼんやりと灯りを眺めている。思い出そうとするとまた頭が痛くなりそうだ。やめておいた方がいい。外の道をおおきなおおきな機械が通り過ぎていった。それを見ちゃいけないと言われているから僕はカーテンを開けたことは無い。でも、あの音はなんかなつかしいよね。君が聞いたらまた「あれは何の音?」なんて質問をするんだろうな。
あれはきっと切れたしっぽを揺らしながら、失った片割れを求めてさまよい夜を泳ぐピスケス。
soundscape
by itr-y
| 2010-03-11 23:42
| 日常