2011年 03月 15日
日本のみんなへ |
このブログによく足を運んでくれる皆さん。そしておとなりさんブロガーの皆様。無事でいらっしゃいますでしょうか。
被害に遭われた方にありましては、心よりお悔やみを申し上げます。
こちらの安否確認も一段落して落ち着いたのでちょっとエントリを書こうと思います。
11日の昼過ぎ、同居人に日本がすごいことになっていると教えられました。テレビとネット、もうすでにすべての機器を駆使して情報収集にあたっていたドイツ人の同居人のラップトップのustreamの画面を見て青ざめました。
過去最大級の地震。しかも震源地は仙台沖合。恐ろしい勢いで津波をかぶっていたのは祖母の住んでいるすぐ隣りの町でした。画面を見て固まったままはっと我に返り、とりあえず実家に電話をしてまず家族の安否の確認。こういう時のために国際ケータイにしておいたのでふつうに自分のソフトバンクの携帯をまわして家に電話すると父が出てウチの家族はみんな無事であると聞きました。ただ仙台とは連絡が取れないと。
その次に仙台の祖母に連絡し電話が通じないのを確認後今度は近くに住んでいるいとこにメールを送り、そのままバイトに出、そして勤務中ポケットに忍ばせていた携帯電話が震えてみんな無事であるとの報せを受けました。
不思議なもので起きた直後はそれほど不安でもなかったのに、家族や友人が全員無事であると確認が取れた後で逆に怖くなってしまい、仙台のいとこからようやく2通目のメールを受け取った後、なんだか急にへなへなと力が抜けてしまいました。たぶんようやく自体の深刻さに気づいたのでしょう。
津波をかぶっていた閖上、名取、若林地区は僕のお気に入りの場所でもあり、我が愛するポンコツを祖母の家まで引き取りに行った時はよくあの辺をドライブしたもんでした。その場所がすべて津波をかぶってしまったいうことがなによりもショックでしたが、あの辺りの地形を思い出してみると津波がかぶってしまう可能性は十分にあったと思います。
こちらの心配事としてはいったいどの辺りまで津波がかぶったのか、祖母の家は無事だったのかということだったのですがGoogle Earthから配信された地震後の被災地の画像を確認してみると津波の跡、瓦礫の流れついた様子や周辺家屋が無事な様子をみると祖母の家までは来なかったようでした。10メートルの防波堤があってそれを乗り越えて来たという話を聞きましたが、その防波堤がもう少し低ければ確実にそれ以上の被害が出ていたことでしょう。
2通目のメールで叔父と祖母がいったん家に戻って被害状況を見に行っているとの報を受けて、こちらからの安否確認作業は終了。あとは向こうからの連絡をまとうと思っています。
こちらドイツでも連日日本のニュースはやっていて、ニュースキャスターがしゃべり慣れない日本の地名を発音するたびに同居人は「シェンダイじゃない!『せんだい』ダヨ!!」と憤っていました。
いつもカフェとかで読んでいたのでこっちの新聞を買ったことは今までなかったのだけれど、今回ばかりは購入、どこも日本のニュースばかりで、どれだけ大きな地震だったのかがよくわかります。いつも行くカフェのイタリア人店主が「大丈夫か!?」と声をかけてくれ、「大丈夫。ウチの家族はみんな大丈夫でした」と返し本当にホッとした顔をしてくれました。どこの国の人たちも心配してくれているようです。
そんな中、時間が経つに連れてドイツのニュースではだんだん原発の事故の方に焦点が移って来ており、専門家らしき人たちがしきりに難しい顔と真剣な面持ちで議論をしています。なんでもドイツ人の同居人曰く、ドイツでは反原発の動きを勧めようとしている人たちがいるらしく、原発はやはり危険なのだということを今回の日本の事故を例にとって反原発の方に世論をシフトしようと画策しているとのことでした。
「こういうことで日本は愚かだとか、そういうことを言うんだ。ろくに事情も知らないくせに。まったく」と同居人はまた拳を振る。こういう時には彼と一緒に住んでいて良かったと心の底から思ったりするのでした。
しかし各国、とりわけ「各国政府」の興味がとりあえずの災害支援からそっちにシフトしていることは確かで、アメリカ、中国、ロシアなどは原発事故の影響による放射能汚染の影響がどこまで波及するのかを問題視しているようです。
仙台の祖母の家は言うに及ばず、東京、そして地元浦安もこの放射能漏れの影響を受ける可能性は十分にあり、これはひょっとしたら最悪の事態であったことが後になってわかるのではないかと、今はそれだけがとにかく心配です。
どこかの教授の人が「今出来ることは花粉症対策と同じようなものだけなので、外に出るときは皮膚を露出しない格好で、そして帰ったらシャワーを浴びるなどして対処してほしい」とのこと。たしかにそれしか手の施しようがないだろうなと納得しました。
だって放射能から避難するって言ったってどこに行けばいいのかわからないもの。
仕方ないのであろう。
でも各国の思惑はともかくとしてFacebookでは以前に同居していた中国人の友人が真っ先にメールをくれたり、先のカフェの店主も心配してくれたり、みんなみんな心配してくれました。人と人の間に国境はないのだと心から感じました。続々と各地から支援や救助隊が到着し、仙台沖合に到着したアメリカの空母はなによりも頼もしいニュースでした。
さて、ふだんから連絡の遅い愛すべきマイペースな友人達は今とても迅速に返事をくれて12時間を待たずに僕は友人全員の無事を外国にいながら確認できました。ネット様々です。
家族の方は今回の地震の何ヶ月か前に、姉の薦めで両親がFacebookに登録してあったので家族とのコンタクトも容易に取ることが出来ました。FacebookといいTwitterといい、以前の阪神淡路大震災よりも迅速に対応することが出来たのはインフラ整備の恩恵だと思うし、大都会東京で倒壊したビルや高速道路がひとつもなかったのはすばらしかったと思います。
こういう時にはとかく「起きてしまったこと」ばかりがニュースになりがちだけど、こうした「起きなかったこと」「未然に防ぐことが出来たこと」がたくさんあったような気がして、なんだかそれだけですごく泣けてきます。
別に自分がやった仕事じゃないけれど、僕らはきちんとやってたんだと思いました。
最後にもう一度。みんな無事ですか?
もしよかったらメッセージをください。
どなたでも結構です。
そしてこの街から亡くなられた方々のご冥福を祈っています。
itr-y こと 横山 至
(追記)3月11日は奇しくも私の誕生日でした。このような中メッセージをくれた友人達に感謝と、なくなられた方へ哀悼の意を。そして災害の中生まれた新たな命にも祝福を。
soundscape
by itr-y
| 2011-03-15 02:07
| ベルリン