2012年 09月 14日
明滅 |
友人の役者Mの舞台があったので、観に行って来た。こんな機会でもないと板橋区になんて行くことはまずないのでとても楽しみだったのだが、舞台というよりはスタジオといった感じの所で、閑静な住宅街のど真ん中にそのスタジオは位置していた。そう言えば彼の舞台を見るというのははじめてだったことに来る途中で気がついた。
Mは長いこと役者をしている。今日の舞台を観る前だったら迷わず「売れない役者」と書き始める所だったが、今日彼の演技を見てきてそれはなんとなく彼の名誉を不当に傷つけることになるような気がするのでやめておく。でもまあ実際売れない役者だ。
演劇に関わる人達に出会う機会がここ一年多かったような気がする。「売れない」なんて言い方をすると、そもそも演劇と言うもの自体が採算が取れない代物であるということを考えざるを得ない。そもそも演劇は映画やテレビの登場以降、エンターテイメントとしてよりも、むしろそのメッセージ性においてのみその存在意義を見いだされている。あとはほとんどの場合趣味か、テレビタレントの流れ着く先というのが一般的な立ち位置だろうし、実際そうなのだろう。だから、僕のようなふつうの人間が演劇に触れる機会というのは、それに携わる人間が身近にいない限りほとんどないだろう。
住宅街の中のスタジオは、そのぼろさ加減も手伝って、ベルリンの小さなシアターを思い出させた。むしろそのものだった。こうした小さなシアターや劇団が東京にもたくさんあるのだろうなと思うと少しくらくらした。僕はせっかく午後の公演だったというにも関わらず、寝坊して10分ほど遅れて会場に入った。ほとんど真っ暗な中、空調も利いていない部屋に案内されて入る。演者のよく通る声が狭いスタジオの中に響いていた。
劇中、Mの出番は少なかった。それを少し寂しい気持ちで観ていた。そして役者一人一人の顔に対して、Mの顔が一人なんとなく表情に乏しいことが気になった。セリフはある。しかし少ない。他の役者のよく通る声や、キビキビとした動き、生き生きとした表情とMの顔を僕はどうしても比べざるを得なかった。なんとなく落ち着かない。もしかしたらこのまま彼の出番は少ないままなのではないのではないだろうかと思った。自分のことでもなんでもないのに僕はひとりで惨めな気分になりつつあった。彼の動きはあいかわらず表情と動きに乏しかった。
しかし、物語の最後のシーンだった。
川に落ちて上がって来ないカムパネルラの捜索を、自ら打ち切る父の声がする。
「もうダメでしょう」
カムパネルラの父は自分の息子の死を静かに受け入れ、息子の友人、そして古き友人の息子ジョバンニに話しかける。沈痛な響きと優しさを含んだ声は、ジョバンニに暖かい声をかける。Mが静かに立ち、一人だけ輪に溶け込めない彼の存在感が息子を失い、誰からの憐れみも拒む父の姿と重なった。ハンチング帽をかぶったジョバンニとカムパネルラの父は夜の中、まだ松明のあちこちで灯る川岸に佇んでいた。そして静かな調子でジョバンニに話しかける。君の父さんはまもなく帰って来るだろうと。
もともと陽気で明るい性格のように見えたMの鬱病気質は、劇中でのカムパネルラの父という役どころとリンクして、それまで陽気にテンポよく進んでいた舞台に最後の静寂を与えた。あの物語の最後に流れるあの感覚。あの何とも言えない感覚がよみがえった。ラスト、演者は全員で春と修羅の序文を群読する。
ワタクシトイフ現象ハ、仮定サレタ有機交流電燈ノ、ヒトツノ蒼イ照明デス
僕は何度も何度もくり返し読んで覚えたその文章を、一緒に口の中で呟いた。読まれない所まで全部頭の中でくり返した。
(光は保ちその電燈は失われ)
風景やみんなと一緒に、せはしくせはしく明滅しながら
いかにも確かに灯り続ける
因果交流電燈のひとつの蒼い照明です
Today's Supernatural
by itr-y
| 2012-09-14 01:03
| 日常