2006年 07月 26日
ふたつの桃 |
いつものように運動を終えて帰ってくると、階下に住んでいる北原さん(仮名)のおばあさんに会った。
北原さんはもう相当な高齢のはずだが、それでも毎日夕方には買い物に出かけ、年の割には割としゃっきりした足取りで帰ってくる。
背中があり得ないくらい曲がっていて身長も低いので、肩掛けカバンを2つ3つぶら下げている様子は、ぱっと見まるで魔女のようでもある。正直、最初見たときは僕もぞっとした。
しかし、何度も顔を会わすうち顔見知りになり、挨拶がてら二言三言交わすようになっていった。
近所の人達は、なんとなくおばあさんを避けているようだったが、まあ無理もないと思う。はっきり言って気味が悪いのである。ごくたまに何か黄土色をした、異臭を放つ液体の入ったバケツを持って、のそりのそりと外に運び出す姿も僕は何度か目撃している。
生ゴミか何かなんだろうか。しかし、あんな風に液体状になってしまうもんだろうか。
以前に僕は燃えないゴミの日に、ゴミ捨て場を漁っている所に遭遇したこともある。
「まだ使えるものがたくさんありますからねえ...」
と呟きながら、その辺に捨ててあったポリエチレン製の容器を手に持ってゴミ捨て場をうろうろしていた。
僕は「そうですね」と相づちを打ちながらも、どうかこのタイミングで他の人がゴミを捨てにきませんようにと心の中で祈っていた。おばあさんがゴミを漁っている所を見られたら、いっそう気味悪がられるであろうことは確かだっただからだ。
今日はずいぶん久しぶりに会ったので、こんばんはと挨拶をした。
おばあさんは最初は誰かが声をかけていることに気がつかない様子だったけれど、ふと顔を上げてこちらを見ると、
「...ああ、どうもお久しぶりです。お母様はお元気ですか」
と言って答えてくれた。
「ええ。まあ。相変わらずです」
声をかけたところで大して話すこともないのである。
出し抜けに
「今、何センチですか」
と尋ねられる。
身長のことを毎回訊くのである。
「ちょうど180あります」
と、いつものように答える。
「...ああ。いいですねえ。背が高くて。とても立派でいらっしゃる。背が高いといいですねえ。」
虚空を見やりつつおばあさんは繰り返す。毎回、僕の高身長と、のほほんとしたうちの母のことを褒めてくれるのである。
もっともたぶん、僕ら以外におばあさんに話しかける人というのはそうは多くないのだろう。
やがてエレベータが来てガコンと扉が開いた。
「それではまた」
突然話は終わる。
「それじゃあ」
僕は階段で上がろうとして大股で駆け上っていった。
すると途中まで上がった所で突然「ガーン」と大きな音がした。
驚いて下を見てみると、おばあさんがエレベーターホールの後ろに倒れていた。
慌てて
「大丈夫ですか」
と駆け寄ると、少し動転した様子で
「大丈夫。大丈夫...」と力なげにおばあさんは答えた。
「立てますか」
「...大丈夫。大丈夫だけれどしばらく一分ほどこのまま休ませて」
と少し乱れた息で言った。
しわくちゃの顔に汗が滲んでいる。黄色いTシャツも所々汗ばんでいた。
「大丈夫ですか。痛みませんか。」
「...大丈夫。しばらくこのまま30秒ほど休ませて。」
こんなときでも脳内ストップウォッチを持っているおばあさんにほとほと感心してしまう。きちんと転倒直後から時間が経過しているのだ。
以前にも何度か倒れた老人やホームレスに手を貸したことはあるが、大体の人は最初自分の身に何が起こったかよくわかっていない。ぼんやりとしていて言うこともよく意味が通らない。
北原さんのおばあさんはまだ相当まともな部類である。
しばらく荒い息をつきながらも少しずつ落ち着いてきたので、体を抱えてゆっくりと体を起こしてやる。脇の下に汗が滲んでいて、指先が少し滑った。
「大丈夫ですか。立てますか。ゆっくりでいいですよ。」
「大丈夫。どうもありがとう。」
少しふらつきながらもおばあさんは自分でなんとか立つことができた。しかし何となく立っているのがやっと言う感じである。
僕はおばあさんの持っていた買い物袋を持ってボタンを押し、まだどこにも行かずにじっと成り行きを見守っていたエレベーターの扉を開けた。
「ゆっくりでいいですよ。ゆっくり歩いて下さいね。」
そろりそろりと歩く足取りが、1〜2センチほどの暗い隙間を超える。この時ほどこの隙間が大きいと感じたこともない。
なんとかエレベーターに乗り込み、僕は「5階ですよね?」と確認してボタンを押した。
「骨がね、やられてはいなかったから良かったわ...」
と、僕の腕につかまりながらおばあさんは呟いた。
「骨がグシャってなったらおしまいだものね....」
「そうですね」
僕も呟いた。
5階に着くと、またボタンを押さえ、ゆっくりとおばあさんの手を引いてエレベーターから下ろした。
おばあさんのカバンににくくり付けてある鍵を持って玄関を開ける。そこでもしばらく扉を押さえて、とりあえず買い物袋をろうかの脇の所に置いておく。
玄関にはなぜか段ボールが山のように積まれていて、家の中にも段ボールが溢れていた。
「弟が建築関係の所で働いていてねえ...
コンクリートとか、その辺の研究のものが一杯なんですよ...」
とおばあさんは言った。
しかし、どう見てもそれは研究用のなにがしかには見えず、ただ単に置き場のないものたちが整理されることもなく家の中にほったらかしになっているだけであった。
おばあさんは「ぽいっ」と、かぶっていた帽子を一番手前に積んである段ボールの上に投げた。しかしそれは届かずにぽとりと床に落ちた。僕はそいつを拾い上げて段ボールの上に置きなおした。
よく見ると扉の内側には黒い引っ掻き傷が所々についていた。なにかを運び込んだり運び出したりした跡のようにも見える。
「本当に助かったわ。あなたがいなかったら私しばらくあそこでのびていたと思うわ。」
お礼を言いながらおばあさんは今しがた帽子を乗せた段ボールの箱を開けて、何かを取り出しながら言った。
「私の弟。6人兄弟の一番末っ子。昭和16年に生まれたの。今、和歌山に住んでいるんだけれどね。その子がね、いつも送ってくれるの。」
と言って二つの桃を取り出した。
「96人もいる工場の工場長をしていてね。ウチの兄弟の中じゃあ一番の...その...出世頭ね。」
「その子がね毎年送ってくれるのね」
「今、鹿島に勤めていてね...」
話がなにやらあちこちに飛び火しては、もと来た道に戻ろうとしつつ、それでもなお弟さんの話が続いた。
「贈るならやはりね..
.
その土地のね...一番いいものを贈るといいのね...
有田みかんと言ってね...とてもおいしいみかんがあるのね...
それをね...贈ってくれるのね...
愛媛みかんはね...美味しいけれど味がちょっときついのね...
だけどこのみかんはね...」
しばらくみかんの話をした後で、桃を手渡しながら
「あなたもね...いつかね...
その土地のね...一番いいものをね...贈るといいわ...」
と北原さんのおばあさんは言った。
僕は笑いながら、「はい」「はい」と何度も相づちを打った。
「それよりも腰。明日にでも病院に行って診てもらって下さいね。なにかあるといけないですから...」
「ありがとうね。本当に助かりました。」
医者に行く気は微塵もなさそうである。
「どうぞお大事に。」
そう言って僕は玄関の扉を閉めた。
発泡スチロールのネットに包まれた二つの桃をしばらく眺めた後、僕は階段を上っていった。
by itr-y
| 2006-07-26 23:53
| 日常