2006年 11月 16日
夜のパルティータ |
なんだかここを通る度に早くも年の暮れを感じさせられてしまう。
特に何もなかった年。
相変わらずどこにも行けない自分。
三越のネオンはまぶしすぎる。
ひさしぶりにグレン・グールドを聴いた。
深夜の空間にグールドのピアノはどこまでも哲学的に響く。
内容やストーリーなんかに意味は無いということを教えてくれる。
あんまりクラシックは詳しくはないのだけれど、グールドのピアノが特別であるということは、まったくの門外漢である僕にもよくわかる。
クラシックだとかなんだとか
そんなジャンル分けもグールドのピアノの前には意味をなさない。
クラシックの人間であるにも関わらず、グールドのピアノはどこかジャズ的である。
決められたメロディを決められた通りに演奏するのがクラシックな訳だが、グールドの場合、そういった制約をまったく感じさせない。
すべてが即興演奏のようなのである。
完全
自由
冷徹
かつ繊細
伸びやかに伸縮する空間は、音楽が精緻な組織を維持したまま深く深く呼吸できることを証明する。
こんな音楽があったのか。
初めてグールドを聴いた時に僕はそう思った。
すべての音符が何年も前に作られたものであるにも関わらず、これほど完全に音として再生できる人間がいたということが信じられなかった。
グールドはもうずいぶん前に亡くなってしまったわけだが、もし生きていたら聴きたかったコンサートのひとつでもある。
晩年グールドはコンサートをやめてスタジオにこもるようになってしまったという。
もし生きていてもコンサートをやっていたかどうかは定かでは無いけれど、たしかに彼のサウンドはどこかシンガーソングライター的な感性もある。
スタジオワークに没頭しそうな感じだ。
これだけ書いておいて僕はそれほどグールドの作品を聴いた訳じゃない。
なんせ録音が山ほどあるのだ。
どれから聴いていいかわからない。
なんとなくロック的な雰囲気もあるなと思っていたら、本人もけっこうそんな感じの人だったらしい。
神経質でいつもミネラルウォーターを持って歩き、水道水は決して飲まなかったり、真夏でもコートを着て演奏前にはお湯で手を温める。
そのうえビスケットやフルーツ、サプリメントしか摂らなかったそうだ。
またオーケストラを交えてのコンサートの前に、自分の座るピアノの椅子を30分かけて調整するなど、変なエピソードの多い人でもある。
天才肌のピアニストであったグールドだが、彼は彼で自分の作った曲がブラームスやシェーンベルクの模倣にしかならず、自分の作品にならないことに悩んでいたようだ。
どうも「天才でありたかった人」だったらしい。
演奏だけ聴いていると天才以外の何者でもないように聞こえるが、本人はそんな風には思っていなかったようだ。
自分で自分の限界をわかっているというのは何ともつらいものである。
孤高の天才に憧れたグールドの音楽は、自分を破壊したいという衝動と、自分を良く見せたいという衒いと、自分は自分でしかないということを理解している理性とが複雑に混じりあって、不思議な純度と透明感を描き出す。
様々なエネルギーのせめぎあう旋律の果てに、僕は冷徹な苛立と寡黙なピアニストのシルエットを見る。
バッハが聴いたらどう思うかな。
レディオヘッドとかが好きな人はグールドのバッハはけっこう好きになれるかもしれない。
是非、一度聴いてみることをお勧めする。
by itr-y
| 2006-11-16 18:51
| 日常