2006年 12月 26日
彼岸の家 |
ここのところ訃報が続いていたけれど、ついにファンクの帝王、ジェーム・スブラウンも亡くなってしまった。
レイ・チャールズが死んだのも記憶に新しいけれど、ひとつの時代を築いた偉大なミュージシャンが死んでしまうのは悲しいというよりも、なんだか感慨深いものがある。
JBもレイももう相当な年だったから亡くなっても不思議じゃない。
むしろBBキングがまだ生きてるっつうのが不思議なくらい。
でもまだBBのステージは一度も見た事がないのだまだ死んで欲しくない。
もうちょっと元気でいて欲しい。
大丈夫だとは思うけど。
JBみたいに有名じゃなく、完全に忘れ去られていたミュージシャンと、死んだ途端、ひょこっと訃報で再会してしまうのは、何とも淋しいものがある。
それまであんまり熱心に聴いていなかったミュージシャンでも、死んでしまってもう二度と生で聴けなくなるとわかると、なんだかもったいないような気分になってしまう。
今までそれほど聴いていなかったというのに。
死んだ後で評価されたり、死んだ後で売れたりというのはミュージシャンに限らず芸術家でも科学者でもよくある事だが、誰かの訃報を聞く度にそのことをいつも考えてしまう。
生きている間は見向きもしなかったくせに、と言いつつ、他ならぬ自分自身もその人の事をきちんと評価していたかと言うと、決してそんな事はないのだ。
それが死んだ途端に評価するようになる。
死亡効果とでもいうんだろうか。
こればかりはあんまり人のことを言えない。
僕自身もそうだから。
当たり前の事ではあるけれど、その人が生きている間は自分も生きているわけである。
同じ時代を生きていている限りは、それほど人生を生きる条件が異なるということは、現代ではあまりないだろう。
その人がどこかの王室のお姫様とか王子様とかでもない限り。
わりと同じ条件が揃っているとなると、その人がある程度名を成しているのは明らかにその人が優れているわけだが、なぜか僕らはその人の事をあまり評価したりする事をしない。
ひどい場合にはその存在に関してコメントもしない。
まるでそこにないかのように、名前も聞いた事がないかのように無関心を装う。
これは一体どういう事かというと、まあ平たく言えば嫉妬なんだろう。
相手が優れている事を認めてしまえば、自分が優れていない事になるからだ。
もちろんそんな事はないのだけれど、相手を認めてしまう事で自分自身の存在が不当におとしめられてしまうように感じるからだと思う。
出来ればそんな事はしたくない。
わりと多くの人がそう思うようで、生きているうちに高い評価を受けられる人というのは少ない。
悲しい事だ。
死んでから評価が高くなるのは、もうその人がこの世にいないからであって、少なくともその人の存在によって自分の評価が低くなる可能性はぐっと低くなるからだ。
そして故人を伝説に祭り上げたがるのは、伝説化する事によって自分自身が優れていないのではなく、故人が突出しているとする事によって自分を守ろうとするからだろう。
こんな話をして厭世観に浸るのも嫌なんだけれど、誰かの訃報を聞く都度、僕はどうしてもジミ・ヘンドリクスの事を思い浮かべてしまうのだ。
ジミみたいな天才ミュージシャンに気づかずに、同じ時代を生きてしまいたくはないと思って、僕はけっこう足しげくライブに通った。
伝説になるようなステージは案外地味なものなのかもしれない。
ミュージシャンや芸術家に限らず、僕は自分自身の近くにいる人に対してきちんと正しく評価をしているのだろうか。
その人がいる事によって助けられている事。
その人の言葉やちょっとした仕草。
殺してやりたいほど嫌な人間の効用や、鬱陶しい思いやりの悲しさ。
その人が死んだ時に僕は後悔せずにいられるだろうか。
不完全なつながりをだらりとぶら下げたまま、僕は歩いてゆくんだろうか。
いずれ僕も住む事になるあの彼の岸の家で、僕は何を思うのだろう。
雨の降りしきる窓の外を眺めながらそんな事を考えた。
by itr-y
| 2006-12-26 19:16
| 日常