2007年 04月 07日
お別れにむけて |
ドイツに行くと言う友人のカメラマンMの壮行会が行われた。
彼の知人の、これまたカメラマンの方の家で明るいうちから飲みはじめ、なんだかんだ言ってる間に昼の2時頃から夜の11時くらいまで居てしまった。
春雨の降る中、隣町の夜道を二人で歩いた。
彼がドイツに行く理由は今ひとつよくわからないのだが、彼は彼でおそらく何かのヒントを探しているのだろう。
バックパッカーでもあった彼がヨーロッパを巡ってみて、一番住みやすく自分にあっているのがドイツだと感じたのだと言う。
理屈よりも感覚の優先する彼らしい理由だ。
知人であり先輩でもあるカメラマンの人は、それでいいんだという風に静かに頷き、帰り際に彼の肩を叩いて餞別を贈っていた。
僕には写真のことは今ひとつよくわからないが、彼らの不思議な精神的つながりは僕にいろいろなことを考えさせた。
酒の酔いもとうに醒め、いつもの後頭部の頭痛を引きずりながら僕はまた物思いにふけっていた。
酒の席で盛り上げて行かなければならないような時に、不意に黙って考え込んでしまう癖は多分もうずっと治らないんだろう。
人数も増えていく中、一人僕は気後れしはじめ意味もなくコップの水を飲んだりしていた。
いろんな理由で人は行動を起こすが、それらのひとつひとつは本当に理由になっているのだろうか。
大抵の場合、理由というものは単なる動機的な体裁として後からつけられるものだ。
そこにあるものに対して大きな意味はない。
みんなこうありたい自分を位置づける為に様々な理由を持ってくる。
しかし彼の場合は取り立てて明確な理由があるわけではなかった。
新しい自分探しだとか、何か新しいものを見に行くとか、そういったこともない。
特に大きな理由もないのだ。
かといって彼が衝動的に行動しているというわけでもない。
いたって冷静なままである。
昔からふざけてはいても、いつも中心のところでは生真面目だった彼には衝動的な所はあっても、単なる思いつきで行動しているということがあまりなかった。
もちろんまったくないわけではないが、彼の行動には一見感覚的に見える判断のひとつひとつにどこか理性的な光が見え隠れした。
小中の頃の彼を知っている僕にとって、彼の中にそういった部分が残っているのはわりあい容易に見て取れた。
そういうところがまったく変わっていないのがうれしくもありおかしくもあったが、ほどなく僕は考え込まされてしまったわけだ。
行動と理由は必ずしもセットになるものではない。
時には行動のみがあり、時には理由だけが残る。
だからこそ世界には不可解な事件も起こる。
事件を起こしただけのこともあれば、計画だけが残ることもある。
行動を記録すればそこに理由はついてくるだろうか。
いや必ずしもそうはならないだろう。
彼を見ているとふとそんなことを思う。
soundscape
by itr-y
| 2007-04-07 23:56
| 日常