2007年 08月 06日
想像してごらん |
朝、うだるような暑さで目が覚めた。
のそのそと起き上がり水を求めて台所に向かう。
ふとテレビをつけると、何やら見覚えのある建物と景色が写った。
ゴーンと鐘の鳴る音がして鳩が飛んでいった。
ぼんやりとした頭でようやく気がついた。
そうか。
今日はそうだっけ。
偶然にも8時15分に目が覚めたことに僕は少し驚いていた。
単なる偶然だとは思うけど。
僕が昔通っていた小学校は、反戦教育の盛んな学校だった。
戦争や原爆の写真や絵本。
他にも語り部を呼んで集会で話を聞いたり、戦争を題材にした演劇をやったりしていた。
その時はふつうだと思っていたけれど、今考えてみるとちょっとおかしな学校だったと思う。
反戦教育は日本の学校ならどこでもやると思うが、それがどうも度を超している。
後で知ったことだが、そこの学校は共産党の地盤で、反戦に関してはけっこう盛んだったらしい。
僕はその後、小学生でアメリカに渡り、海外では原爆の「げ」の字も知られていないということを知る。
むしろ向こうにとっては先の戦争と言えば「パールハーバー」で、こっちが悪いことになっていた。
これでは世界平和なんて夢のまた夢だわと、幼心に思ったことをよく憶えている。
戦争や原爆の恐ろしさを一番手っ取り早く伝えようと思ったら、写真が一番手っ取り早い。
見れば一目瞭然。
何が起こったのかを知ることが出来る。
言葉は嘘をつくが、写真なら「比較的」正直でいてくれる。
僕は6才の頃にその学校でそんな写真を見せられて、夜、家に帰ってから泣いた。
それは今でも軽いトラウマになっているくらいだ。
生き残った人たちには悪いけれど、話にはいやが上にも嘘や誇張が入ってくる。
想いが強ければ強いほどその歪み率は高くなり、聴き手にはあまり伝わって来ない。
何人もの人たちの昔話を聴いたけれども、どれにも僕は共感することは出来なかった。
あえていうなら、この人にとってはそうだったんだなと思うことぐらいだったろうか。
醒めた小学生だ。
国内でも核を容認する発言や、国際的な核兵器の広がりが懸念されている。(とニュースは言う)
被爆の記憶は薄れ、また再び、というよりも継続して核兵器は広がろうとしている。
もうその流れは歯止めを知らない。
誰もその流れを止めることは出来ないだろう。
戦争は必ずまた起こる。
そして核兵器も使われるだろう。
でも僕はそれが特に悲しいことだとは思わない。
特に悲観的な考えだとも思っていない。
ただ単に「そういうもの」だと思うから。
僕はいろいろと教育を受けてきたし、考え方の違いというのも体験してきた。
でも僕は「本当の」戦争を体験したわけじゃない。
人づてに聴き、記録を読み、写真を見ただけである。
要はすべてイメージでしかない。
戦争に関する議論がどんどんと形式化して薄っぺらくなり白々しくなってくるのは、ひとつにその場にいる誰一人がその現場を知らないという理由だろう。
みんながみんな自分自身のイメージをもとにして話を進めているわけである。
これほど空しいことはない。
僕たちは広島にもいなかったし、東京にもいなかった。
南京にもいなかったし満州にもいなかった。
アウシュビッツにもいなかったし、ノルマンディーにもいなかった。
朝鮮にもサイゴンにも。
カンボジアにもボスニアにも。
どれもこれも記録にある通りに解釈するのみである。
そんな中でどうやって戦争を解釈していけばいいのか。
僕が戦争教育から学んだことは、皮肉にも「他人の話は真に受けるな」ということだった。
人間という物はどれだけがんばったところで中立には立てない。
どこまで進んでも必ずどこかで交差し、衝突し、そしてまた離れてゆくものである。
それは悲しいことかもしれないけれど、とても自然な事だと僕は思う。
だって、国と国レベルだけでなく、家族や恋人、友達同士だってそうではないか。
人と人はお互いにわかりあうことなんて出来ない。
それは結婚して家族を築いたことのある人ならわかると思う。
それが血のつながった相手であっても、お互いの考えていることをイメージするしかないのだ。
僕たちはひどく曖昧な物の上にたっていて、とても微妙なバランスの上で日々、呼吸をしている。
どれかがひとつ欠けても生きてゆくことは出来ないし、どれかが多くあっても駄目なんだろうと思う。
バランスは時おり崩れ、その度にもとに戻ろうとする。
それが国家間で行われるのが戦争である。
それは個人と個人の感情的なバランスからくる不均衡ではなくて、もっぱら経済活動として起こる。
今さらいうのもなんなんだけれど。
次の戦争が起こるのがいつになるかはわからない。
世界規模の戦争はともかく、散発的で小規模な戦争、テロなどはこれから先もまだ続くだろう。
これもやはりそういうものなんだろうと思う。
まるで大気の対流現象のようなそれを、僕はぼんやりと静観している。
今のところはまだ静観することが出来ている。
いつまで見ていることが出来るだろう。
僕もまたいつか、
傍観者から語り部になるときが来るのだろうか。
soundscape
by itr-y
| 2007-08-06 00:18
| 日常