2008年 12月 17日
あの日のために |
祖父が死んだ。
今朝めずらしく朝早くに目が覚めて朝食をとっていた。
普段から鳴らない携帯が二度震えてメッセージを残した。
母からだった。
我が家の伝達事項はすべて母を通して伝えられる。
なんとなく普通のメールではないというのが開く前からわかった。
そういうときは何となくそういう気がするものだ。
ぼんやりとじいちゃんのことを思い出していた。
昨日、実家に帰って母と一緒にお茶を飲みながらじいちゃんの話をしていたばかりだったので少し驚いた。
せっかく高い介護保険料を納めてきたんだから介護サービスは使わなきゃ損よと母が言っていた。
夜中にじいちゃんが暴れただとか、そんな話をしていた。
ばあさんも一人でなんとかできる年ではなくなってきたので、そういう介護サービスは使わなくてはそろそろやっていけなくなってきたのだが、そんな話をしていた翌日に亡くなってしまった。
いよいよ本格的に介護が必要になるかもしれないというところで自分から逝ってしまうあたり、他人に迷惑をかけないのがモットーの祖父らしい最後であった。
とりあえずその日は出勤し、職場に近々忌引きさせていただくかもしれませんという旨を告げた。
課長は快く承諾してくれた。
つい先日3日も病欠してしまったばかりだというのに、一番忙しいこの時期にまた休まざるを得なくなってしまうとは皮肉なものである。
そう言えば父方の祖父が亡くなったのも僕が中学3年の頃の受験まっただ中の師走だったなと思い出した。
師走とお盆に亡くなる人は多いらしいということを初めて知った。
じいちゃんは何を思って今日にしたのか。
自分の体と精神が言うことを聞かなくなっているのを一番わかっていたのは祖父だったはずである。
最後はすっかりボケてしまっていたそうだけれど、なんだか自らの力で幕を引いた気がするのは家族の中で僕だけではないだろう。
じいちゃんは寡黙な人だった。
神主の家の出で国鉄職員をしていた祖父はいつもそばにいるとどこか不思議と落ち着く感じを与えてくれる人だった。
いつも自分の習慣を崩さずに一人で何でもしてしまう人だった。
ちなみに洗濯と風呂掃除はじいちゃんの仕事だった。
庭の手入れや草刈り、小さな家庭菜園の手入れもじいちゃんの仕事だった。
僕はまだコンクリの護岸になる前の用水路の土手でじいちゃんとよく燃えるゴミを燃やしたのを憶えている。
のどかな時代だった。
やがて田んぼだらけだった周りにも家が建ち始め、田んぼは埋められ大きな公園になった。
夜でもやたらと明るくなってしまい、夏場は近所の若者がたむろするようになってしまった。
じいちゃんは病気を患い、それがもとで体調を崩してしまった。
個人的にはあの時もっと別の病院に行っていれば良かったのではないかと思うのだけれど、今更そんなことを言っても仕方があるまい。
病気をしてから5年くらいだったろうか。
あの時の病気が直接にではないにしても、決して小さくはない影響を与えるであろうなということはわかっていたけれど、やはりそうなってしまった。
仙台の家には沢山写真の飾られているキャビネットがある。
その中に2歳の僕がじいちゃんと手をつないでいる写真がある。
その物心つく前の時のことを僕はよく憶えている。
5歳年上の姉があたらしく買ってもらった長靴で水たまりの中に入って遊んでいたのを見ていた。それがうらやましくて自分も行きたいとごねていたのをじいちゃんが手をつないで引き止めていたのだ。
いいなあ、ながぐつ。
じいちゃんぼくもいきたいよ。
soundscape
by itr-y
| 2008-12-17 08:06
| 日常