2013年 03月 26日
2年後 |
ひさしぶりに仙台へ行って来た。夜行バスにもわりと慣れたと思うが、乗客が多いとさすがにストレスも多く、帰りの便はやたらと暑い暖房のおかげでまんじりともせずに帰って来た。幸い、帰って来たその日は夜勤で帰宅したのが7時半頃だったから、そのまま布団をかぶって寝てしまい、夕方からそそくさと仕事に向かった。こういう時、わりと余裕のある職場でよかったなと思うのだ。
仙台に行く目的は、強いていえばボランティアだったけれど、とくに明確な目的があるわけでもなかった。ただ単に3月のシフトをみたら3連休が入っていたのだ。それじゃあちょっと仙台に行って来よう。震災2周年だし、ボランティアもついでにちょっとやって、ついでに祖母の様子も見て来ようと思ったのである。仙台の街はとくにそれほど大きく変わってはいなかった。驚いたのは祖母のとなりの家が取り壊されて更地になっていたことだろうか。はじめてみる祖母の家の勝手口側の光景をしばらく眺めていた。
そういや以前はここは田んぼばかりでなにもなかったんだもんなあ、とちょっと昔を懐かしく思い出していた。自転車は今回も役に立った。祖母宅に行くと言うと顔をしかめた母のために今回は家に泊まるのをやめ、市内のユースとゲストハウスに泊まることにした。現在、祖母の面倒を叔父がみているからというのが母の言い分だったが、じっさい行ってみると祖母はやたらと元気になっていて、一時の落ち込み具合も何のその、以前の元気なばあちゃんに戻っていた。そのままボケてしまうかと思われたけれど、彼女の場合もともとそういう性格なので別にボケているわけではないのである。こういう時戦中派は強いなあと思うのである。
ボランティアは一日だけだった。やったのは若林区内の個人宅の石を取り除く仕事だった。ぱっと見はもうすっかり片付いてはいるのだけれど、すこしスコップで掘り返そうとすると中から石やコンクリ、割れた瓦なんかが出て来る。畑をするにも何かを作るにしても、作業の障害になってしまう。10時から始めて15時まで。10人くらいでやってようやく10m四方ほどの面積の石の除去作業が終わった。来ていた人達は見事に県外の人達ばかりだった。
15時に仕事が終わると僕はさっそく閖上に行って来た。話には聞いていたけれど、あいかわらずなにもないままの光景だった。遠くの焼却炉ではまだがれきを燃やし続けている。都市整備や復興に関しては住民のコンセンサスが必要になって来るのでなかなか進まないけれどもがれきの焼却だの、道路の掃除だの、とりあえずやらなきゃいけないことに関しては日本人は行動が速い。去年いくつかあった漂着物の山ももうすっかりなくなっていた。
ある程度予想はしていたことだけど、一日目のボランティアが終わると僕はすっかりヒマになってしまった。出先でのヒマほど辛いものはない。せっかくの休みなのだからと思ったけれど、ドミトリーでの他人との同泊のおかげで僕は睡眠不足になっていた。相部屋でも夜行バスでもぐっすり眠れる人が本当にうらやましい。おかげで昼間眠く、あまり活動的ではなくなっていた。なにくそ負けるかと思いつつ、眠い頭を起こしてまた閖上のあたりを自転車で走った。
浜に出たいなあと思った。
海岸は今、橋が封鎖されていて作業車両しか入れなくなっている。あの懐かしい浜辺へまた行きたいと思った。今どうなっているのだろう。松林はすっかりなくなってしまっていたけれど、きれいな浜辺の面影もなくなっているのだろうか。もともと閖上は海水浴が出来るような海岸ではない。外洋に面していて波が高く、砂浜はドン深で泳ぐには危険なのだ。
3日目。僕は叔父と一緒に仙台の郊外にある祖父の墓にお参りに行った。日曜日ということもあって霊園にはわりと人が多かった。買って来た花を供えて、あれこれとお願い事をした。神様みたいに祈ってしまうのは、そもそも祖父の家が神社で、葬式も仏壇もすべて神道だったので、手を合わせるときも二礼二拍手一礼になってしまい、おもわずお願い事をせずにはいられないのである。じっさい、どこか不思議な雰囲気のある祖父だったから、あの世に行ったことでいよいよ神様になったんじゃないかというような感覚が僕ら家族にはあった。いろいろよろしくお願いしますと僕は祈った。
叔父と一緒に青葉城趾にひさしぶりに行った後で、そのまま車で亘理、山元町のあたりを見て回った。だだっ広い平野が見渡す限り広がっていた。津波がかぶったところでも、もうすっかりリフォームしてきれいになっている家がちらほらあった。でもしかしなんとなくどこか土っぽかった。
僕はさしてもう被災地の光景にあまり心動かされなくなっていた。特に何があるわけでもないし、自分がそれをそれほど悲惨だとも思っていない事に気づいた。死んでしまった人もいたんだろうが、でもしかしそれが何だというのだ。地震ってそういうものじゃないのか。叔父の運転する車の中ですこしうとうとしながら茶色い風景を眺めていた。
自分が同じ目に遭ってみないとわからないのだろうか。いやでもしかし自分がもしその渦中にあっても、それほど何かの確固とした自覚のようなものは得られなかったんじゃないだろうかと思う。ただでさえ生きている感覚が希薄な人間が、どんな目にあってもたいしてなにかを感じたりはしないのだろう。
こういうのがある意味ひとつの「強さ」みたいなものなのだろうか。
僕はいつまでも同じ昔話をくりかえす祖母に適当に相づちを打ちながら、そんなことを思った。そう言うものがじつはどこか知らない所で連綿と受け継がれているのかもしれない。
by itr-y
| 2013-03-26 23:40
| 旅